食文化と落語

◆第七回◆ 野菜編

唐茄子屋政談(とうなすやせいだん)
~かぼちゃが引き起こす大騒動!?~

《かぼちゃ》という呼び名はほぼ全国共通ですが、地方それぞれに呼ばれ方も違っており、江戸(関東)では《唐茄子》、上方(関西)では《なんきん》、地方によっては《ぼうぶら》などとも呼ばれ、庶民に親しまれていました。僕の母は兵庫県の生まれだったので、かぼちゃのことは《なんきん》と呼んでいました。読み方も《南京》のアクセントとは違って頭にアクセントが付いていたので、母が《なんきん》といっても横浜では通じなかったのを覚えています。このように、かぼちゃには様々な呼び名があり、それは落語にも通じています。今回紹介する落語は『唐茄子屋政談』と『かぼちゃ屋』です。かぼちゃというのは間が抜けた感じがしているので落語の題材に向ていますね。

『唐茄子屋政談』という落語は若旦那・徳さんの遊びが過ぎて親から勘当されてしまい、吾妻橋から身を投げようとしたところを伯父に助けられるところから始まります。伯父は翌朝、天秤棒でかぼちゃを担がせ商いに行かせます。これは、働いているところを人づてに両親に知らせて、詫びの手づるにしようというもの。しかし、若旦那は重い荷を担いで商いなどしたことがありません。不慣れな足取りで、日に照り付けられながら歩くも、吾妻橋を渡って広小路へ出る頃には、日陰でべそをかき、倒れ込んでしまいます。すると、気の良い男が長屋の住人や友達にかぼちゃを2つだけ残して、代わりに売ってくれました。男が友達に売りつけるときに…

友達:「俺は唐茄子屋に義理はねえや」
男 :「唐茄子屋に義理がねえとはなんだ。唐茄子が嫌いと言いやがったな。手前ぇ3年前のことを忘れたのか。俺の家へ居候をしていたときに唐茄子を煮たら美味ぇ、美味ぇって言いやがって、唐茄子の安倍川を38切れも食らいやがったろ!」

という場面があるのですが、この唐茄子の安倍川という料理は食べたことがない。色々な人から話を聞いてみると、かぼちゃを蒸かしてきな粉をかけて食べるのが「唐茄子の安倍川」という料理らしい。

 また、『かぼちゃ屋』では与太郎が「かぼちゃ、かぼちゃ…。」と売り歩いていると長屋の男に「《唐茄子屋》でございって言って売ってみろ」と言われるシーンがあります。江戸ではちょっと気取ったときにかぼちゃを《唐茄子》と呼んでいたことが落語から伺えます。

 『唐茄子屋政談』はその後、徳さんが、窮迫した浪人の家族にその日の売上と売れ残った2つのかぼちゃ、それに自分の弁当を渡し、後も見ず帰ってしまう。入れ違いに家主がやってきて、溜まっていた家賃として、売上を女房から取り上げてしまいます。女房は徳さんに申し訳ないと首をくくり、長屋は大騒ぎ。一方、伯父は帰ってきた若旦那の話を信用せず、一緒に長屋へ来てみるとこの騒ぎ。女房は発見が早く一命をとりとめ、家主は不届きでお叱りを受け、若旦那はこのことがきっかけとなり、無事詫びが叶い、勘当を解かれるのです。

 落語の世界でも親しまれていたかぼちゃですが、僕の時代でかぼちゃというと戦争中を思い出させる食べ物なのです。食糧がないとき、代用食として食べていたのが、さつま芋とかぼちゃ。両方とも味そっちのけで品種改良されて、実だけじゃなくて茎とか弦とか、そういうところも全部食べてね。だから僕なんかは、どんなにおいしくても、かぼちゃもさつま芋も、あんまりありがたくない。今はスイーツとしてやハロウィンなんかで食べられているイメージがありますが。昔から女性を表す慣用句として「とかく、女が好む物、芝居、浄瑠璃、芋蛸南瓜《いも たこ なんきん》」があります。これは、男の三道楽煩悩「飲む、打つ、買う」に対する慣用句として使われた言葉だったのでしょう。

 

茄子娘
~親が「茄子」とも子は育つ!?~

 茄子で思いつくことわざとして「秋茄子は嫁には食わすな」や「親の意見と茄子の花は千に一つも仇はない」などがありますね。秋茄子は皮が薄く、種子も少なく、肉質も詰まっておいしい為、お姑さんがお嫁さんいじめとしてなった言葉とも捉えられますし、茄子は解熱効果があるので、出産を控えたお嫁さんの身体を気遣った老婆心としても捉えることができるわけです。捉え方で意味が180度変わるというのも面白いですね。

 また、茄子は花が咲いたら必ず実がなる為、親の意見も茄子の花と一緒で、何ひとつ無駄がない。そのため、親の意見はよく聞くべきということで、「親の意見と茄子の花は千に一つも仇はない」とよく若い人に言い聞かせていたのでしょう。そんな茄子が登場する『茄子娘』という落語があります。

 ある田舎のお寺に茄子好きの和尚がいて、「大きくなったら、私の菜《さい》にしてやろう」と語りかけながら丹精込めて茄子を育てています。ある夜、蚊帳の中でウトウトしていると外に人の気配が、見てみると若い美女がそこにいます。聞くと…

「私は茄子の精です。和尚様は大きくなったら《わしの妻(さい)にしてやる》と、いつもおっしゃいますから…」

茄子の精は【菜《さい》】を、【妻】と勘違いしていたのです。そんな夜が明け、和尚は雲水の修行へと旅立ち、5年後にふらっと寺へ立ち寄ると「お父様」と呼ぶ幼子の声が聞こえてきます。見るとおかっぱ頭の幼子がいます。娘などいない和尚は少女にそう言うと、

「でも貴方は私のお父様です。だって、私は茄子の娘ですもの」「そうか。ではアレは夢では無かったのか。さすれば私の子に相違ない。で、幾つになる?」、「5つになりました。一人で大きくなりました」

「なるほど…」

「親は茄子(無く)とも子は育つ」

『茄子娘』という落語は一時期廃れてしまった噺ですが、オチがあまりにも馬鹿々々しいからかえってウケるのではないかと掘り起こされたのでしょう。

《親が茄子とも子は育つ》っていうのは本当にくだらないダジャレですが。

 
 

たけのこ
~タケノコで親孝行!?~

 『二十四孝』という中国の書物に、孟宗という人の話があります。雪が降っている最中にタケノコを掘りに行き、土を掘ると冬にあるはずもないタケノコが出てきて、それを老母に食べさせるという親孝行の話です。『二十四孝』という落語では、これに尾ひれが付いて、おっかさんが「もっとタケノコが食べたい」と言ったら、「もう、そうはない」っていう。そこから 孟宗竹という名前が付いたなんて言われています。『二十四孝』という書物は江戸時代に寺子屋の教材になっていたので、子どもたちはみんな知っていました。

 江戸時代の目黒では特産品になるような作物がなかったのですが、山路治郎兵衛勝孝という人が孟宗竹のタケノコ栽培を目黒の農民に提案したことで作られるようになりました。

幸い目黒の土壌はタケノコの栽培に適しており、良質なタケノコ生産に成功します。人々の間で「目黒=タケノコ」となるのは、目黒不動尊という江戸五色不動の一つとされている有名なお寺の近くで、茶飯屋がタケノコご飯を参詣人に提供したのが、始まりと言われています。

 さて、落語とタケノコの関係については武家屋敷と隣家を舞台にした『たけのこ』という落語があります。ある武家屋敷の隣家のタケノコが垣根を越えて庭に生えたのを、家来の可内が切り取って主人の食膳に出そうと支度をしていると、主人から隣家へ挨拶をして来いと言われます。可内は主人に言われたとおり「御当家のタケノコが私の屋敷へ泥ずねを出したので、無礼千万と手討ちにしました」「それはごもっとも、しかし当家で生まれたタケノコゆえ、不憫に思いますので、死骸は当方へ送り下さい」と隣家の方が一枚上手。

可内は戻って主人にいきさつを伝えると「その死骸が入用なのだ。タケノコの皮を持っていけ」可内は皮を持って行き、皮を玄関に放ってしまう。隣家の主人は…

「しからばもはや死骸は葬られたか。あーあ、やれかわいや、《皮嫌や》」

武家屋敷には竹藪がある家がほとんどでした。根の張る竹を植えることで地震対策にしたり、竹を使った道具を拵えたりと様々な使い道のある竹は重宝されていたそうです。

私はタケノコと聞くと小学校1年生の時を思い出します。今のようにタケノコ採りが風物詩じゃなかった頃、竹藪はどこにでもあったので、タケノコはどこでも生えていたし、初夏には八百屋さんで売られていました。担任の女の先生の家が大きな竹藪の中にあって、そこへ友だちと一緒に遊びに行ったら、その先生がタケノコご飯を炊いてくれて。あのおいしさは、今も忘れないですね。

 

のめる
~大根100本で「つまらない」?~

 「のめる」が口癖の熊五郎と「つまらねえ」が口癖の八五郎が、互いに自分たちの癖をやめようと話す。ただやめるだけでは面白くないので、口癖を言ったら50銭を相手に払うことに。熊五郎はなんとか相手に口癖を言わせようと隠居から知恵を授かり…

「大根を100本もらったが、醤油樽に詰まろうか?」

と聞くと八五郎は「つまらない」と言いそうになったが、危ない所で引っかかりません。

熊五郎は逆に仕掛けられ「のめる」と言ってしまい50銭取られてしまいました。悔しいので、次の手を考えて見事、八五郎に「つまらない」と言わせることに成功しますが、八五郎はさらに上手で…

熊五郎:「50銭寄越せ」
八五郎:「やるよ、だけど手前ぇにしちゃよく考えた1円やらあ」
熊五郎:「ありがてえ1杯《のめる》」
八五郎:「おっと、差っ引いておこう」

熊五郎がけしかけた、「大根100本が醤油樽に詰まるか?」というのは、たくあんを漬けるときは4斗樽に大量の大根を漬けるのですが「あいにく4斗樽がないから、物置を探すと醤油樽が出てきた。これに100本詰まるか?」→「つまらない」という知恵を隠居に授けられたということです。大根100本詰めるためには4斗樽でないと入りきりませんから、醤油樽に100本入るわけはない=「つまらねえ」となるわけです。

 たくあんは上方ではお手製で漬けていたそうですが、江戸では棒手振りの行商から買うことが多かったそうです。江戸のたくあん作りに使われていた練馬大根はたくあん作りに適していました。現在の練馬あたりは僕の時代でも広大な大根畑でしたから、江戸時代にはことさら大根作りが盛んだったのでしょう。

 

らくだ
~江戸っ子は芋で酒は飲めない~

 「らくだ」という落語は《らくだ》とあだ名される乱暴で長屋でも嫌われ者の男が、季節外れの河豚をお手製で食べて、見事に毒に当たって死んでしまうところから始まります。

 明くる朝、らくだの兄弟分《丁の目の半次》というらくだに輪をかけて乱暴な男が金を借りに訪ねてくる。死んでいるらくだをみて、弔いの真似事をしようと企むが、懐には一銭もない。そんな中、屑屋が家の前を通るので呼び止め、金をせしめた上に、長屋連中から香典、大家から酒3升と芋・はんぺん・蒟蒻を辛めに炊いた煮しめを大きな皿へ3杯、漬物屋から早桶(棺桶)代わりに菜漬けの樽を用意するよう使いに出す。なんとか言われた通り使いを果たしてきた屑屋に大家からの酒を無理に付き合わせると、屑屋は実は酒乱で、

「百姓じゃあるめえし、芋で酒が飲めるけぇ、べら棒め。魚屋行って鮪のブツ持って来い!」と半次は逆に脅され…。という話。

 この噺の中に、塩っ辛く煮しめた煮ものが出てきますが、これは冷蔵庫がない時代、塩が効いていないとすぐに腐ってしまう為、濃く味付けをして日持ちさせるという庶民の知恵が活かされています。具材に芋とありますが、これはおそらく里芋のことでしょう。

三遊亭圓生さんは、「蒟蒻にはんぺんに蓮」って言っていたかな。五代目の柳家小さんさんは、「芋にはんぺんに蓮」。だから、そのときどきで、自分が言いやすいようにやっていたので、煮しめとしては、どっちでもいいんじゃないですかね。現代では免許がないと調理できない河豚を自分で料理して食べ、死んでしまうというのは、らくだという男は長屋だけでなく河豚にも嫌われていたんですね。

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