食文化と落語

◆第八回◆ 卵編

鰍沢
~絶対絶命!お材木で助かった!?~

 
 

 卵は昔から「精のつく食べ物」として重宝されており、江戸時代初期から調理法が発展しました。落語『鰍沢』に登場する玉子酒は、現代のように風邪薬など手軽に手に入らなかった時代に、民間療法の一つとして広く普及していました。江戸時代の玉子酒は滋養強壮を目的とした、薬酒として認知されていたのでしょう。今でも風邪の引き始めに、体を芯から温めるために飲んだりしますね。

 落語『鰍沢』は山梨県の身延山久遠寺に参詣に出かけた江戸商人・新助が大雪に遭った山中で、偶然見つけた山小屋に一夜の宿を頼むと、そこには新助の昔の知り合い《月の戸おいらん》が《お熊》と名乗り、熊の膏薬を売って、ひっそりと暮らしていました。新助は一宿のお礼にと、お金を包んで渡します。お熊は新助に寒さを紛らわすようにと、玉子酒を勧めます。

「この辺は地酒ですから口元へ持ってくると初めは突っ返すように嫌な匂いがしたものなんですが…。あ、玉子酒にして今こしらえます。」

 当時はお酒の製造技術も発達していないので、現代のように色の澄んだお酒ではなく、白く濁った《どぶろく》が主流でした。酒の弱い新助は玉子酒を少し口にすると旅の疲れも相まって眠気に誘われ、隣室で眠ってしまいます。お熊が酒を買い足しに出かけると、入れ違いに亭主の伝三郎が帰って来ます。新助が飲み残した玉子酒を飲むと、途端に苦しみ出します。隣室でその様子を見ていた新助は、自分のお金を狙ってお熊が毒を盛ったことに気付き逃げようとするも、すでに毒が回り、体がしびれて動けません。なんとか毒消しの護符を飲んで毒を抜くも、背には「夫のかたき!」と鬼の形相で鉄砲を持って、新助を追いかけるお熊。追い詰められた末に、川に落ちた新助は材木にしがみつき、必死に「南無妙法蓮華経」とお題目を唱えます。十分に狙いを定め、引き金を引くお熊。轟音とともに弾は新助の頭をかすめ外れます。辛くも難を逃れた新助は、

「この大難を逃れたのもご利益、お材木(お題目)で助かった。」

 江戸時代でも、ニワトリを飼っていた家はあったと考えられます。鶏肉を食べるという他に、卵を採る為に鶏を飼っていたという家もあったでしょう。一坪か二坪か庭があれば、後は駕籠みたいなので伏せておけば飼えたでしょうし。母親の田舎が兵庫県の山奥で、夏休みに母親と田舎へ一緒に帰ると、僕のおじいさんが「ほんなら、今夜はすき焼きにしようか」と言って庭の鶏が一羽いなくなるわけです。昼間元気に鳴いていた鶏を食べるわけですよ。ただ、これは今思い出しても、美味しかったですねえ。卵を溶いて、お砂糖をかなり入れてね、鶏の卵巣でしょうか、卵ができかかっているところがあって、そういうところが美味しかった。ウズラの卵みたいな小さいのがぶつぶつってたくさんあるのが美味しかったなという思い出がありますね。「ほな、すき焼きでもしよか~」というのんびりとした言い方が記憶に残っています。

 

王子の狐
~狐を化かすと罰が当たる?~

 
 

玉子焼きは昔から地方や家庭ごとに味付けがあります。例えば、関西地方の玉子焼きは、昆布だしを効かせた味付けが主流のいわゆるだし巻き。醤油や砂糖などの調味料を効かせてしっかりとした味わいの玉子焼きは、江戸風とされていますね。東京の王子にある「扇屋」という店は江戸時代から甘い味付けの玉子焼きで有名なお店で、今でも続いています。『王子の狐』には二階の座敷で料理屋をやっていた頃の「扇屋」が登場します。

 王子稲荷で若い娘に化けた女狐を見つけた男が、その女狐を化かして仲間たちへの自慢話にしようと「扇屋」に誘い出し、口車に乗せ、たっぷりとお酒を飲ませてしまいます。狐がしたたかに酔っぱらい、ぐっすり寝てしまうと、男は勘定も払わずに「勘定は二階で寝ている家内が払う」などと適当なことを言って、お土産に名物の玉子焼きまで包ませ、店を出てしまいます。狐は目をさますと、途端に勘定を請求されたことに驚き、耳としっぽを出してしまったので「狐だ!!」と店中大騒ぎ。店の者に追い回されるも、やっとのことで逃げ出します。一方、狐をだました男は仲間に自慢げにことの顛末を話しますが、「狐にそんなことをしたら恨み殺されるぞ」と仲間に脅されます。狐のところへ詫びに行くと子狐が「昨日おっかさんを化かした人間が来たよ」「また来た?出るんじゃありませんよ」

「お詫びだと言って何かくれたよ。やあ、ぼた餅が入ってら」
「食べるんじゃないよ!馬の糞かもしれない」

 江戸時代から明治時代にかけての頃、上野の山から道灌山、飛鳥山と山歩きをして、王子稲荷に参拝し、「扇屋」などの料理屋や茶屋で一杯やるのが流行ったそうです。その頃から「扇屋」の玉子焼きは有名だったそうで、僕は未だ食べたことはありませんが、かなり大きくて、三日くらいしか日持ちしないのを、現在は注文すると宅配で送ってくれるそうです。保存料などなかった江戸時代では、醤油や砂糖などで味付けを濃くすることで、日持ちさせていたのも生活の知恵の一つだったのでしょう。

 『王子の狐』のように、玉子焼きは落語に登場しますが、目玉焼きが登場する落語はお目にかかったことがありません。やっぱり目玉焼きの見た目が気味悪かったのか、フライパンなど普及していない当時を考えると、目玉焼きという調理の発想自体、思い付かなかったのかもしれません。今では半熟の目玉焼きは手軽に食べられる卵料理ですが、考えてみれば、海外の人は半熟の目玉焼きをあんまり食べない印象があります。

 僕が留学したての頃、学生寮に朝ごはんを食べに行くと、寮のおばちゃんが「卵をどうするか?」と聞いてくるので「目玉焼き」と答えると目玉焼きを作ってくれるんですが、矢継ぎ早に「いくつ食べるか?」と質問してきて、次に「どういう風にして食べる?」と聞かれますから「フライドエッグ!!」と答えると「ひっくり返すか?」と聞かれるんです。その質問でいつも会話が止まってしまって。質問の意味が随分と分からず、後から分かりましたが、それは半熟の目玉で焼いたやつをひっくり返すか?って聞いていたんですね。

 西洋人は生を嫌がるから反対側も焼いて完熟の目玉焼きにするのが主流でした。僕はひっくり返すのは嫌だから、「ノー」と断ったけど、なんて言ったら良いか分からず、周りの注文を見ても、そんな注文する人もいませんから、「なんて言うんだ」って聞いても、そんな言葉は無いと押問答でした。

 ある時「サニーサイドアップ!」って言われて、片方だけ焼く目玉焼きは「サニーサイドアップ」って呼ぶんだと、その時ようやく知ることができました。目玉焼きにはそういうつまらない思い出があります。その言葉にたどり着くまでに三月くらい掛かったので。「サニーサイドアップ」は死んでも忘れない言葉です。やっとの思いで食べた目玉焼きが来た時の嬉しさは今でも忘れられません。

 

百川
~生卵が傷薬?~

 

 落語の世界には生卵が良く登場します。『寝床』では義太夫の真似事をする大旦那が「卵を用意して」なんてやり取りがあります。あれは単純に精をつけるということもありますが、それよりものどに良いってことなのでしょう。要するにつるつるしているからのどに良いと考えられていたのです。

 また、『百川』では、料理屋「百川」に奉公する田舎者・百兵衛が二階座敷で宴会をしている、河岸の若い衆に「長谷川町にいる常磐津の歌女文字の師匠を呼んできてくれ」と呼びにやらされます。百兵衛は長谷川町まで来たものの歌女文字の名前を忘れてしまい、《か》の付く名高い人と聞いて、鴨池玄林という外科の医者の家に飛び込み、田舎訛りで、

「河岸の若え衆が今朝がけに四、五人きられやして、先生にちょっくらおいでを願いてえ」

この百兵衛の言葉が

「袈裟がけに四、五人切られた」

と取り次がれたので、百兵衛は鴨池先生の使いの者に

「手遅れになるといけないから、焼酎を一升、白布を五、六反、卵を二十ほど用意しとくように」

と言付けをされ、薬籠(薬箱)を持って帰ると、それを見た河岸の連中は「歌女文字の三味線の箱にしては小さい」などと考え込んでいる。その内に、早合点した一人がしゃしゃり出て、「焼酎を飲んでサラシを腹に巻き、卵を飲んでいい声を聞かせようってことだ」と言う。そうこうしているところへ鴨池先生が「けが人はどこだ」とやって来た。若い衆は何のことか分からず、鴨池先生に話を聞くと薬籠は先生のものだと分かる。若い衆は百兵衛を呼び付け

「この抜け作」
「おら、百兵衛ちゅうだ」
「名前じゃねえや、抜けてるんだ」
「どのくれえ抜けてます?」
「みんな抜けてらい」
「か、め、も、じ…。か、も、じ…。いやあ、たんとではねえ。たった一文字だ」

 この『百川』で鴨池先生が百兵衛に持って行かせた生卵は、卵の白身を傷口に塗って消毒に使うのだそうです。鴨池先生はそのつもりで言ったのを、河岸の若い連中は歌女文字が飲んで良い声を出すんだよ。という解釈になる。鴨池先生的には「消毒の為に生卵を用意して下さい」と伝えたのに、全員で良い声を出して騒ごうと思ってるところに可笑しみがあります。

 僕は生卵というと病院のお見舞いに持って行っていくものという、感覚があります。それは卵料理にしてお上がりくださいってことだと思いますが、そのまま飲んで精をつけていたこともあったかもしれませんね。僕らの子供の頃、卵はとにかくご馳走でしたからね。今みたいに必ず冷蔵庫の中にあるっていうものではなかったのです。

TO TOP