食文化と落語

◆第九回◆ 鰻編

 《土用の丑の日は鰻を食べて精をつける》というのが、現代では夏の風物詩となっています。この《土用の丑の日》の発祥にはいくつか説があります。医者・地質学者・戯作者・俳人・発明家など様々な才に秀でていた平賀源内が、鰻屋を商っている友達から「夏に売れない鰻を流行らせたい」という相談を受け、店先に《本日、土用の丑の日に鰻を食べれば、夏負けすることなし》という看板広告を立てさせたところ、大繁盛したという説は広く知られています。他にも狂歌師・蜀山人が《土用の丑の日に食べる鰻は食あたりせず薬になる》という狂歌を詠んで広告した説など。これら諸説から土用の丑の日には鰻を食べるという文化が定着したと言われています。落語にも鰻をテーマにした噺があり、その中から『子は鎹』『鰻の幇間』『鰻屋』の三題をもとに、鰻の食文化について紐解いていきましょう。

 

子は鎹
~落語から垣間見る鰻の格式とは?~

 
 

 大工としての腕は良いが、大酒飲みの熊さん。女房と息子の亀ちゃんと三人で暮らしていましたが、とあるご隠居の弔いに出かけたっきり、なかなか家に帰ってきません。家に帰った熊さんはコツコツと仕事をしている女房を見て謝りましたが、大げんかに発展してしまい、女房は一人息子の亀ちゃんを連れ、家を出て行ってしまう。その後、別の女性と暮らし始めるも長続きはせずに別れてしまった熊さんは改心し、三年ほどまじめに働き、世間の信用も戻ってくるようになった、ある日のこと。仕事場に向かう途中で、息子の亀ちゃんとばったり会います。大きくなった亀ちゃんの話を聞くうちに、「ああ、自分が悪かった」と改めて反省した熊さんは、亀ちゃんに小遣いを渡してこう言います…。

熊さん:「亀、お前ぇ鰻が好きだったな。鰻は食ってるか?」
亀ちゃん:「鰻なんて食ってやしねえよ。鰻の顔も忘れちゃった」
熊さん:「そうか。よし、明日のお昼に鰻食わしてやる」

 日本人にとって、鰻ほど格式の高い特別な食べ物はほかに多くはないでしょう。江戸時代に発展・定着した寿司、天ぷらは元々が屋台で売られていた食べ物なので、手軽に食べることができました。対して、鰻のかば焼きやお重は宴会の席や晴れの席のメインになりうる料理ですので、今と変わらず特別な日に食べるご馳走だったのです。

 さて、落語の続きに戻ると、家に帰った亀ちゃんはうっかり母親の前で熊さんからもらった小遣いを落としてしまい、どこで手に入れたのか詰問され、玄翁(金槌)でぶたれそうになったので、とうとう熊さんに会ったことと明日鰻屋に行く約束をしたことを白状してしまいました。明くる日、鰻屋に出かけた亀ちゃんの後をこっそりつけた女房は、鰻屋の前を行ったり来たり。亀ちゃんが「おっかさんが来たよ!」と言うので、二人は再会し元の鞘に収まってめでたしです。

女房:「こうやって、元のようになれるのも、この子があればこそ、子どもは夫婦の鎹ですねぇ」
亀ちゃん:「やあ、あたいが鎹だって?道理で昨日、玄翁でぶつと言った」

 熊さん親子が行った鰻屋には修行を積んだ職人がいて、料亭の形式をとっています。だから、当時庶民が鰻を食べに行くとなったら一大イベントで、おめかしをしていくほどなわけです。天ぷらなんかは屋台で食べられるから、おめかしはしなくてもいいけども、鰻を食べるんだったら「それはちょっと一張羅を着ていかないといけない!」。そんな認識が当時にはあったのです。料理の提供も現代で云うコース料理のようなもので、最初に《うざく》という酢の物、続いて鰻を芯に巻いた卵焼き《う巻き》やゴボウに鰻を巻き付けた《八幡巻き》が脇の一品料理として出てきて、鰻を素焼きにした《白焼き》や《かば焼き》を肴にお酒を飲んで、最後にうな茶をサッサッサとかき込んで締めるわけです。熊さんがどういう注文をしたかはわかりませんが、亀ちゃんに良いところを見せようと精一杯奢ったでしょうね。鰻屋にあるものを全部取り寄せるようにして。自分も鰻を肴に気持ち良くお酒を飲んだことでしょう。大団円を迎え、幕を閉じる『子は鎹』の冒頭で熊さんが亀ちゃんと再会する時、「お前、鰻好きだったよな」という言葉から、夫婦が別れる前はちょっと良い暮らしをしていたことが伺えます。熊さんは腕も良く、贔屓にしてくれるお客も付いていたことでしょう。なので、数日家を留守にし、遊びに出かけるくらいのお金はいつも懐にあったのでしょうね。そのお金を亀ちゃんや女房のために使えば鰻くらいはいつでも食べさせてあげられたんだろうと思いますが…。  

 

鰻の幇間
~高いものには高いだけの理由がある~

 
 

 『子は鎹』の熊さん親子が行った鰻屋は一張羅を着て行くような格式のある鰻屋でしたが、落語に登場する全ての鰻屋が上等な鰻屋とは限りません。『鰻の幇間』という落語に登場する店がまさにそうです。

 これといってご贔屓もいない幇間持ちの一八は、どこかで見たことのある男に道で出会い「お供しましょう!」と取り巻く。名前も住まいも思い出せず、一八は男に探りを入れるも素っ気なくはぐらかされてしまう。しかし、お世辞を言いながら何とか食い下がると、男も折れた様子で…。

ある男:「店はあんまり綺麗じゃないけど、食べ物は本物だよ。新しいものを食わせる」
一八:「大将、あたしゃ鰻屋を食べるんじゃない。鰻を食べるんです。ぜひお供を」

と、とうとう鰻をご馳走になります。しかし、連れて行かれた鰻屋は一八の想像よりもずっとぼろぼろ。さすがに心配になりますが、男の「ここの鰻は上等だ」という言葉だけを信じ、散々世辞を言う。そのうち男は便所に行くと言って部屋を出て行ったきり戻ってきません。なかなか戻ってこないので、お女中に男の事を聞くと先に帰ったと言われる。それも初めて来た客で、勘定も払わずに帰ったと聞き、がっくりとする一八。なけなしのお金を懐から出し勘定を払い、ぶつぶつ言いながら帰ろうとすると、その日の朝に買った新品の下駄ではなく、汚い下駄が揃えてあり…。

一八:「おい!こんな小汚ねえ下駄なんて履くかい!今朝買った下駄を出しておくれ!」
お女中:「あっはっはっは。あれはお供さんが履いて参りました」

 『鰻の幇間』の店に限らず変なところに入ると、ひどい店も随分とあって、僕が今までで食べた鰻で不味かったのは、確かスーパーのレトルトみたいなやつでしたね。大手町のとある店が真空パックに詰めて販売するというのをやりだして、当時バンクーバーに移住した弟に食わせようと、お土産に買っていきました。でも、当時は真空パックの技術が開発されたばかりで、向こうに行って食べてみましたが、味がそんなに…。今は技術も進歩してひどくはないんでしょうが、やっぱり店に行って職人が焼いているのを目の前に、お重が目の前にぽんと来るっていうのじゃないとだめですね。値段が高いものには高いだけの理由があるということですね。

 

鰻屋
~「かば焼き」を生んだ功労者は醤油~

 どこの鰻屋でもというわけではないですが、軒先で鰻を捌き、かば焼きを焼いているような鰻屋さんは当時多くあったのでしょう。店の一番目立つところに、備長炭を敷き詰めた焼台を構えて、ひっくり返しながら団扇でパタパタやって、お客を匂いで釣るという思惑でしょうか。または、まだ換気扇などない当時は排煙に楽な軒先で焼いたという発想だったのか。とにかく鰻屋は、一階が調理場で二階の座敷で鰻を食べるというような構造が主だったのです。

 『鰻屋』では、調理場となる一階が舞台となります。ある日、長屋に住む男が友達にこう話します。「この前、横町に新しく出来た鰻屋に行ったんだが、鰻割きが用足しでいねぇってんで、いつまで経っても鰻が焼けてこねえ。きゅうりのお新香で2時間も飲ませやがった。鰻を持ってこい!と言ったら気の利かない若い衆が、丸焼きの鰻を持って来やがった!あとで亭主が来て、今日は開店日で行き届かないことが多くありましたので、お勘定をいただこうという考えはございませんと言う。後日またお飲み直しを。って言うもんだから、ごちになるよってんで、飛び出して行ったんだ!」。「今日はまた鰻割きがいねえんだ。タダで酒を飲もうと思うんだが、一緒に行かねえか?」と悪い相談を持ち掛けます。すると、言われた友達も「そいつぁ、おもしれぇ!」と意気揚々に出かけて行きます。鰻屋に着くと案の定、鰻割きはおらず、調子に乗った男たちが「お前、鰻屋の親方なら鰻を割けねえことはねえだろ。こいつを焼いておくんねえ!」と桶の中の一番大きな鰻を指さします。仕方なく店主は鰻を掴みにかかるが、掴んだ指の間からぬるぬると逃げてしまう。それを見た男たちが…。

男たち:「おいおい、親方どこ行くんだ」
店主:「どこ行くかわかりません、前回って鰻に聞いてください」

 『鰻屋』に登場する店主は鰻を掴むことから苦労していますが、鰻をかば焼きのように料理として仕上げるのは難しく、《串打ち三年、割き八年、焼きは一生》などという言葉があるほどです。ぬるぬると逃げ惑う鰻に困惑する『鰻屋』の店主の様は想像すると、どことなく可笑しみを感じますね。

 気の利かない若い衆が持ってきた、丸焼きの鰻は諸説ありますが、《かば焼き》の源流だったと言われています。つまり、ぶつ切りにした鰻を串に刺して焼いた様が【蒲】の穂に似ていたことから《鰻のかば焼き》と呼ばれるようになったというわけです。

 十八世紀頃、現在の千葉県で濃口醤油が発明されたことは、今では当たり前となっている、香ばしく甘辛い味付けの《鰻のかば焼き》が生まれるきっかけになります。また、それまでは関西から入ってきた薄口醤油が主流でしたが、この濃口醤油が江戸の人々の嗜好に合い、大変に流行したそうです。濃口醤油の登場は《関東の濃味》と《関西の薄味》の比較を生み、現在までの和食文化に大きな影響を及ぼしています。濃口醤油と、同時期に安定して生産されるようになったと言われているみりんを掛け合わせたことで、今日の《鰻のかば焼き》の味わいが完成したのだそうです。

 いわゆる《江戸っ子》にとって、鰻は隅田川や東京湾で獲れた江戸前でなければ気が済まなかったそうで、地方から仕入れた鰻を《旅鰻》と呼んでいました。鰻の生態は未だ謎に包まれていますが、養殖技術がなかった頃を考えると現代以上に天然の鰻は見栄っ張りな江戸っ子たちの心を掴んで離さなかったのでしょうね。

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